蒲郡みかん
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若手農業者「蒲郡4Hクラブ」
» 12月12日 南部保育園を訪問 蒲郡みかん

蒲郡みかんの歴史

始まり

 蒲郡では240〜250年ごろ前から紀州小蜜柑、九年母、柑子、たちばなが自家用として農家の宅地や畑の隅に植えられていたようです。

 文政、天保年間(1818〜1844)に幡豆郡斉藤から移入された唐みかんが現在の「蒲郡みかん」の始まりと言われています。温州みかんも天保年間に神ノ郷に導入され、その時植えられたみかんの木が神ノ郷山本地区の尾崎史郎、尾崎市左衛門さんのみかん園に昭和10年ごろまでありました。

 明治の初め、一部の人たちが温州みかんを植え、明治20年ごろには「神ノ郷みかん」または「西郡みかん」の名で知られるようになり、明治の末には神ノ郷みかん園は20ヘクタール、大正の初期には30ヘクタールとなり、3万円の収穫がありました。

昭和時代

 昭和2年には静岡県三ケ日地方に視察団を派遣してみかんの品質を研究した結果、肥料、栽培、管理等に改善の必要がありとされました。宝飯郡農会に園芸専門の技術員が置かれ、蒲郡地区に駐在したのを機に昭和3年かんきつ研究会を設立。研究会、指導会、品評会を開催し、技術の向上と品質の改善が図られ、品質において県内先進地の知多郡産と比肩するまでになりました。

 蒲郡町の倉橋良平さん、杉浦惣四郎さん、御津村の市川佐一郎さん、塩津村の杉浦興吉さん、大塚村の川口寿一さんは肥培管理の改良、病害虫の防除、必要資材の共同購入などを目的として各村落に柑橘組合の設立を計画。これらの組合は東京や大阪に「三州みかん」の銘柄で出荷、昭和5年には三州蜜柑出荷組合連合会を結成、販路の拡大、商標の作成、市場の指定、検査員を設置、「三州みかん」のブランド化と販売に努力しました。

 昭和7年には蒲郡町神ノ郷に県営母樹園が設置、県立蒲郡農学校でも五井山麓(454.2メートル)の原野1ヘクタール余りを開墾し、植栽。それに刺激され、昭和9年ごろからは1年間で10f開墾による増反が増えました。昭和15年には三州蜜柑出荷組合は19組合、547人に達しました。

 昭和23年8月には農業組合法の施行で宝飯豊川果樹農業協同組合が設立されました。

(以上、愛知県園芸発達史より抜粋)

温室みかんへの挑戦

蒲郡みかん

 昭和47年にはみかんが生産過剰による大暴落(全国生産量350万8000トン・前年比143%)のなか、48年御津町の竹本昌文さんが温州みかん無加温栽培、翌49年白井敏男さんとともに加温ハウスを建設、栽培に取り組みます。


 当時の模様を竹本昌文さんは次のように語っています。

 「初めての施設、技術面では全くの暗中模索。露地みかん経験を活かし、温度環境をいかに施設内で早く作り上げるかを実施。換気扇はあっても吸入口の開発されていない施設を朝夕開閉することが苦労でした。当時は昼23〜25度、夜12〜13度、昼夜間温度格差10度程度を目標としたものでした。花芽が見えた時は白井敏男さんとやれやれとほっとしたことを覚えています。販売価格も高価格維持で推移し、施設費も1年で償却できるほどでした。次第に加温期を早くし、レベルアップしようと計画しましたが、夏芽を一斉に発芽させると同時に秋芽を抑制し、花芽を誘起促進する。糖度アップや隔年結果を防止するような管理技術、環境問題にもぶつかりました。教えてくれる人は当然おりませんし、苦労をしました」。


 また、豊橋農業改良普及所長だった近藤満さんは次のように記しています。

 昭和47年以降、みかんの暴落が続く中、御津町の2名の先輩とともに昭和50年神ノ郷町30〜40歳代の後継者(後に7人の侍と呼ぶ)が何としてでもみかんで生きたいという強い思いを結集して、ハウスミカン産地化への道を切り開いた。

 ハウスの建設は無利子の農業改良資金(普及所の担当窓口)を活用したが、柑橘農協の山本参事にハウスミカンの技術や経営対応を相談したら『普及所でやってくれ』という返事だった。ハウスミカンはまだ未知の存在であった。オイルショック後の油不足の時折柄、県の専門技術員からはみかんのハウス化を推進しないように強い働きかけがあった。当時のハウスミカン農家はまさに孤立無援の状態からの出発であった。

 7人の侍は、是が非でも成功しなければの思いを胸に懸命の努力を続け、幸いに`平均単価784円、生産原価314円(所得率66%)、日当31800円という、当時としては信じられないような実績を上げることができた。翌51年にはハウスミカンの評価は市内全域に広がり、新規栽培者60戸、施設面積70000平方bへと一気に急増、拡大し、現在の大生産地化への礎が築かれていった。

 かつての7人の侍から30〜40代への新たな後継者へバトンタッチをしつつある。産地の明日に光を見い出しながら親から子(後継者)へ個から地域へ新しく幅広い視点に立った支援指導が新生蒲郡市農協の大きな役割となるだろうと思います。

(蒲郡蜜柑農業協同組合史から抜粋)

蒲郡みかんのブランド化

 昭和52年、ハウスみかん前年の好成績により、急速に拡大。「日本一のハウスみかん産地」として知られるようになりました(栽培面積22ヘクタール、栽培人員151人)。

 平成20年には「蒲郡みかん」が県内農産物で初めて特許庁が認可する地域団体商標(地域ブランド)に登録されました。平成26年4月現在、露地みかん567戸栽培面積293.7f、温室みかん123戸35.5f、組合員数567人となっています。

 品種を宮川早生に統一し、高い糖度とほどよい酸味を兼ね備えた「蒲郡温室みかん」(糖度12〜13度)は4月上旬から出荷しはじめ、9月下旬まで供給されます。露地みかん(糖度11〜12度)は10月からですが、なかでも「箱入娘」は、露地栽培の早生みかんのうち、園地を限定し、木の下に白いシートを敷いてマルチ栽培を行うことで水分を調節、糖度を高めた早生みかんの特選品。糖度11.6度以上が箱入娘として出荷されます。11月下旬から12月中旬までの期間限定品です。年明けからは、青島温州みかんと中晩柑の新品種「はるみ」、ハウスの中で4月まで完熟させる樹熟(きじゅく)デコポン。「蒲郡は1年を通じてみかんを供給しています」とJA蒲郡市販売部販売企画課の山本拓男課長。

 JAでは、県の学校給食会に食材として取り入れてもらったり、1日果物200グラムを摂取しよう、という啓蒙活動に力を入れているほか、加工品としてみかんのジュース、サイダー、ワイン、ゼリーやお菓子などにも原料となるみかんを提供しています。

 みかんの需要が下がり、重油の価格が上がるなどみかん農家にとってはダブルパンチの状況は変わりません。「みかん農家の現状は厳しいけれど、やればやっただけのことはあります。JA蒲郡市としても一生懸命農家を応援しています」と山本課長は話していました。

若手後継者の集まり、蒲郡4Hクラブ

 蒲郡のみかん農家は新たな後継者たちを迎え、活発に活動しています。20代を中心とした若手農家は10人。蒲郡柑橘同志会青年部は40人、再来年には結成60周年を迎えます。

 鈴木琢磨会長(30)は、サラリーマンを経験後、5年前26歳でみかん農家の後継者になりました。「僕で5代目となります」。杉浦淳史さん(27)は農業高校を卒業し、静岡の柑橘試験場で研修。小さいころから5代続くみかん農家を継ごうと思っていたとか。山田拓也さん(26)は東京農業大学卒業後、「将来性がある」と感じて4代続くみかん農家の後継ぎに。

蒲郡みかん

 全員がみかん農家として3代、4代、5代目の後継者。親には反発をしても、仲間同士で畑を回り、話し合い、研究を重ねています。「みんな年が近いし、ざっくばらんに話せます。冒険だと思うけれど、もっとおいしいみかんを作りたい。手間をかけずに品質の高いみかんをどう作るかが課題です」と鈴木会長。

 今燃料費は高いまま推移しているものの、「みかんの健康機能性について注目が集まれば、将来性はある」との発言にみなさんうなずきます。「僕たちの代で蒲郡みかんをつぶしちゃいけない。94歳になるひいじいさんもまだ働いていますよ」とみかんに対する愛着は強い。

 4Hクラブのみなさんは「ブランドの『箱入娘』は、糖度が高く、食べて頂くと、こんなに甘くておいしいのかと思われるはずです。ぜひ1度、蒲郡みかんのおいしさを味わってください」とPRしていました。



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